もの置き

てきとうに色々書きます

レッドログNo.4(20/03/12)

 書くことないので今日は自分でも語ることにする。興味ない人はガチで興味ないと思うので帰ってよし。

身の上話

 父についての一番古い記憶は、リビングから直通の奥まった仕事スペースで3面モニタのPCに向かい、なにやらキーボードを叩いている背中だった。今はすっかり禁煙しているが、当時の父はバリバリの喫煙者で、タバコの臭いを嗅ぐと、今でもふとそんな父の背中を思い出す。

 父は、あまり子供に興味を持たなかった。自宅にいても常にPCに向かいあって、時々誰かと電話をしていることもあったが、基本的には常に「自分の時間」を過ごしていた。幼心に、「ああ、これはいい父親じゃないんだろうな」と思っていた。生意気にも。

 物心ついた当時引っ越してからは、僕と妹が1部屋ずつの個室を得て、父の作業スペースはもっぱら部屋の中になった。前まではその場にいなくとも打鍵音やタバコの臭いで「存在している」ことはよくわかったが、部屋に入って作業するようになってからは、それすらもわからなくなった。平日は帰ってきてからもすぐに仕事に取り掛かり、休日は早くに起きてどこかに出かける父。小学校を卒業する頃には、僕と父の関係はめっきり疎遠になっていた。

 父の仕事がラジコンパーツの通販業であるということは、この頃知った。休日に出かけていたのは、ラジコンのサーキットだったらしい。

 さて、知っている人は知っていると思うが、僕は大学を中退している。大阪から遠く離れた熊本の地で一人暮らしさせてもらい、仕送りまでしてもらっての体たらく。決断そのものに後悔は一切ないが、今にして思えばかなり甘えたことをしたと思う。その際、もちろん父ともそれなりの口論になった。「大学は出ておけ」というのが父の主張であったからだ。

 僕の祖父は小さな印刷関係の会社の社長を勤めている。父が大学受験に失敗し、専門学校を経て、なおかつその業種とは全く関係のない祖父の会社に就職したことはその時すでに知っていた。「大学は出ておけ」という父の主張は正論である。しかし、僕にはどうしても学歴コンプレックスを押し付けているようにしか感じられなかった。僕は父が受験に失敗した進学校を自分の母校となる高校に選んでいたし、そのぶん期待をかけられていることも知っていた。取り合う気もなかったが。

 その後、なんやかんや2年間グダグダとフリーターを続け、今に至るわけである。父の懸念は正しかったといえよう。大学は出た方がよかった。本当にそう思う。でも、僕にとって大学という学府の形態が苦痛でしかなかったのも事実なので、やっぱり自分の決断に後悔はない。

 さて、今の僕は完全にカードゲーム業界に身を埋める気だ。最初は壁打ちでしかなかったメタゲーム・ウォッチングが多くの人に読まれ、拡散され、有名なプレイヤーとの交流につながった。今では個人ブログの枠を超え、代価を頂いて執筆させていただく機会さえ得た。このチャンスを逃す手はない。最大で、最後の好機かもしれないのだから。モノにできるよう、全力で取り組んでいくつもりだ。

 その旨を母に伝えたのが、1月の頭ぐらいだったか。
 それから2ヶ月が経って、昨日。なんとなしに今後の身の振り方についての相談を母とした時、こんな言葉が帰ってきた。

「お父さんともその話したけど、『趣味でブログ書いてそれが記事になってお金もらってって、親子揃って同じようなことしてるなあ』って笑ってたんよ」

 聞けば、父はどうしてもラジコン関係の仕事をしたかったがゆえに、毎日ラジコンに関するブログを更新して、精力的に大会にも参加していたらしい。それが功を奏してラジコン雑誌に記事を寄稿するようになり、やがて自分のショップを持つまでに至ったのだとか。今では、自分でサーキットを開き、小さな大会も主宰している。

 僕が幼い頃、父がずっとPCに向かいあっていた時間は、そのほとんどがブログの更新作業だったんだとか。

 なんだ、それ。僕の「やりたいこと」の先人は、こんなにも近くにいたんじゃないか。

 僕は身勝手だと思っていた父の背中に、これまでにないほどの親しみを抱くようになった。

 確執らしい確執があるわけではない。ただなんとなく疎遠で、気まずい父との関係は今もまだ続いている。
 でもいずれは、気安く相談できるようになる日がくるのかもしれない。

 例えば、そう、

「ねえ、カードショップ開きたいんだけど、どうすればいい?」

 だったりとか。

 これはまだ、妄想のお話。