もの置き

てきとうに色々書きます

社会構造から考える新時代のストーリー・テリング・スタンダード 〜 「天気の子」「WE ARE LITTLE ZOMBIES」に学ぶ

※このブログでは社会学における学術用語を恣意的に解釈し、使用しています。乱雑な用語の使用にアレルギーのある方は読まないことをお勧めします。

現代のゲゼルシャフト

 皆さんは「ゲマインシャフト(以下Gm)」と「ゲゼルシャフト(以下Gs)」という2つの単語を聞いたことがあるだろうか。ドイツの社会学者テンニースが提唱した概念で、日本語ではそれぞれ「共同体組織」「利益体組織」と翻訳される。

 Gmは地縁や血縁、友情などの「情」によって結びつきが構築される組織であり、Gsは利益や機能、効率といった「利・理」によって結びつきが構築される組織である。

 Gmの特徴として、結びつきの根拠が情であるがゆえに、なんらかのルール違反を犯さない限りは「ただその地域で生まれただけ」「ただその血族の中に生まれただけ」で、生まれながらにして無条件で枠組みの中に組み込まれうる点が挙げられる。そしてその枠組みの中にさえ暮らしていれば身分が保証されるのだ。
 ジャパニーズホラーで典型的に見られるムラ社会を思い出してもらえれば話は早い。ざっくりとしているが、この枠組みは「身内に対して非常に甘く」「よそ者に対しては冷淡で」「身内であっても掟を破った者には厳しい制裁が加えられる」という性質を持っている。

 一方で、Gsは利益追求をその求心力としているために、その組織にとって利益にならない者を在籍させる理由が存在しない。参加者には常になんらかの条件が課せられているというわけだ。Gs的社会において、身分を保証を得ることは自らの価値を証明する作業に等しい。
 逆に言えば、「価値さえ証明できれば出自や身上がどうであったとしてもどこかしらに所属する余地はある」というのがこの枠組みの特徴である。

 もちろん、全ての枠組みを明確に白と黒に分けられるものではないということは前置きしておこう。どのような組織も、Gm的側面とGs的側面を持ち合わせていることが通常だ。


 さて、言うまでもなく現代社会を形作る結びつきのほとんどがGs的である。かつてそこかしこに存在していたムラ社会は高度経済成長とともに鳴りを潜め、「地域共同体」という概念はせいぜいが「同じマンションの理事会」だとか「小中学校のPTA」だとかそういったレベルとなった。
 テンニースの論においても違わず「GmからGsへの移行」こそが近代化なのだとされている。


 さて、ここで視点を現代に戻す。
 現代において、インターネット上に無数の結びつきが存在するのは皆さんもよく知るところだろう。このウェブページを見ているほとんどの人間は、なんらかの形でそのような結びつきの一部に身をおいているはずだ。しかし、このような繋がりというのは、GmGsのどちらの性質が強いと言えるだろうか。

 一般的な友達関係とさほど変わらないと見れば、「情」「利」という区別で言うと「情」のほうが強いようにも思う。しかしたとえば共通の趣味を根拠とした繋がりである場合、もちろんのことならばその趣味を持たない人間に参加権は存在しない。そして、「自分が興味のある話題を発信し、時に有力な情報源となってくれる」ことを期待しているとするならば、それはもはや「利」の繋がりとあると考えることはできないだろうか?

 「面白い人のまわりにその面白さを求める人間が集まり、より面白いものを生み出すための基盤を作る」。これはGsの類型に当てはめることはできないだろうか?

 そう、インターネットでの結びつきはほとんどが「条件つき」なのである。これはGmの特徴には当てはまらない。


 かといって、それだけなのであれば取り立てて話題にあげる必要もない。インターネットが齎したもうひとつのもの、それは「Gsの過剰供給」である。

 かつて、ひとりの人間が所属しうるGsの絶対数はさほど多くはなかった。そして、それゆえに「所属」の価値は高いものでもあったといえる。「なんらかの組織に所属している」ということはそれだけで類似の指向性を持つ業界において一目置かれるものであっただろうし、比較できる他人の数もさほど多くないのだから、承認がひとつふたつあれば十分に事足りたわけである。


 現代に目を向ければ、インターネットの発達によって一人の人間が数多のGsに所属できる時代となった。
 LINEのグループ通話への招待を承認するだけで。Discordのチャンネルリンクをクリックするだけで。ツイッターの、フェイスブックの、あらゆるSNSのフォローボタンをタップするだけで。現代を生きる私たちは息をするようになんらかの「繋がり」の中に頭から飛び込んでいく。「条件付き」とは名ばかりで、ただ組織の中に名前が在るだけの亡霊がそこかしこで生まれている。

 飽和したGsは個々の価値を希薄にする。こうなってしまえば、なんらかの繋がりの「中にいる」というだけでは自分の価値が証明できない。
 追い討ちをかけるように、インターネットの世界では何億というアカウントが自分との比較対象として襲いかかってくる。そこらの人間がまともに自尊心を保てるわけがない。当たり前の話だが、1億人でトーナメントをしたら9999万9999人は敗者なのだ。


 前置きが長くなった。本題に入るとしよう。

 今回題材として取り上げるのは「天気の子」「WE ARE LITTLE ZOMBIES」という2本の映画。僕はこの2本を振り返りこう感じた。

「これらは2本とも、間違いなく時代の潮流を掴んだ作品だ」と。

 両者にどのような共通点を見出し、何が時代を掴んでいると感じたのかを、語っていきたいと思う。

新時代の「孤独」について

 結論から入る。

 僕が両者に共通して感じたのは「現代の若者が抱える『孤独』の正体をこの上なく正確に掴み、描いているな」ということだ。もちろんキーワードとなるのは「現代の孤独」である。前項の長い前置きはこのための下準備であった。


 現代において真の意味での「ひとりぼっち」というのは、おそらく本当にごくごく限られた場所にしか存在しない。
 現代にはインターネットが存在する。たとえ実生活のコミュニティの中においては家族以外にまともな交友関係を持てなかったとしても、ネット上での友達、SNSのフォロワーであったりとか通話仲間であったりとか、そういった類のものはほとんどの人間が持っているだろう。原始的な定義で言えば、孤独な人間などいないはずである。

 だが、現実として多くの若者は(僕自身も例に違わず)、周り中に他者の存在を感じながらにして自分が孤独の中にあることを実感する。その理由は「他者の無理解」だ。
 当たり前の話ではあるが、自分の気持ちを完全に理解してくれる人間など存在しようもない。だって他人は他人、自分は自分なのだから。

 だが、ここに前項で述べた問題点が発生する。ネットの繋がりは、もっぱら「Gs的」なのである。

 これが学校の友達であるとするなら、いくら喧嘩したところで次の日かその次の日には顔を突き合わせることにはなるし、同じ空間にいればなんとなく修復されていくものもある。だが、インターネットは同じ場所を共有する繋がりではない。
 TLという視点で見るとそういう類型もなきにしもあらずだが、ブロックミュートで視界の外に放り込んでしまえば再び対面する機会など皆無になってしまう、温かいようで冷淡な社会である。

 要するに、「嫌われたら(≒交流する価値がないと判断されたら)そこでおしまい」なのだ。ゆえに、彼らは他人に理解されない言動をすることを極端に恐れる。
 オタクが言うところのいわゆる「語録会話」もその延長線上にあると僕は思っている。共通の文脈にそった言葉のみを使用した会話であればお互いに不理解が起こりえない。

 しかしながら、真の意味で誰かに理解してもらうことなど到底できはしない。インターネットを介してなんでもないただの一般人が千人、万人と交流を持ちうる現代において、無数の人間がいてそのひとりひとりがぜんぜん違う考えを持ち合わせているなんて、そんな事実は小学生でもすぐに気づくのである。
 「自分のことを全部わかってくれる誰かがいるかも」なんて夢や希望は持ちようもない。しかし理解を得られなければそこでおしまいだ。
 「ふぁぼりつ」を多く求めてしまう承認欲求はバカにされがちだが、自己顕示欲とかそういった単純なものよりも、もっと切実なものがあるのではないだろうか。「自分の感性に共感してくれる人間がこんなにもいるんだ」と安心して、孤独感を紛らわせるという。


 そんな現代の若者たちの中で今起こっている変化とは何か? これは僕の予想でしかないが、たぶん、「Gm的承認への回帰」だ。
 なにもしなくても生きているだけで承認してくれる、そんな居場所が欲しいのだ。

 かよわいヒロイン、守られるだけのヒロインが鳴りを潜め、逞しいヒロイン、母性的なヒロインが次代の騎手を担うのもそう考えてみれば当たり前だ。家族はもっとも原始的なGm的集団である。
 これは、ただ若者が情けなくなったというだけの話には収めきれないと考えている。現代の若者には、価値を示すべき場所があまりに多すぎるのだ。

 余談ではあるけれど、なろう系小説にもそういうトレンドはかなりきていると思う。主人公のことを大好きな主人公の娘や兄弟姉妹、ペットが無双する作品は今や王道の俺TUEEEEEEE系を凌ぐほどの勢いだ。


「天気の子」考 — そして彼は「大丈夫」になった

 現代の若者が背負う孤独について考察したところで、今度は個々の事例を見ていくことにしよう。まずは「天気の子」だ。

  「天気の子」は主人公の帆高がわかりやすく「Gm的組織」である離島を抜け出そうとするところから物語がはじまる。この頃の帆高くんはまあ言うなれば田舎者で、僕が提示した「現代の若者」のターゲット層とは少しズレている。
 Gm的承認は十二分に足りている状態だ。

 だが、彼が東京にたどり着いてからは状況が激変する。当たり前の話だが、そこにはGs的社会しか存在しない。そのような環境に慣れていない帆高が疲弊していくのも無理のない話だ。誰も自分を人間として認めてくれないのだから。
 須賀の事務所に拾われてからもそれは変わらない。
 住み込みで仕事をこなすシーンはまるで擬似家族かのように描かれているが全くそんなことはない。あくまで「仕事をする」という条件を元に承認がなされている価値でしかなく、警察が来たら手切れ金を渡して追い払う、極めてGs的な関係性だ。

 さて、少し話を広げよう。「天気の子」の感想においてよく見られた文面が「帆高くんの行動が理解できない」というものだった。なるほど、確かに容易には理解しがたい行動が散見される。それは視聴者である僕たちはもちろん、作中の大人たちでさえもだ。
 そう、ここには「他者の無理解」が存在した。先ほど述べた、現代の孤独の一端だ。

 Gm的社会の中で生涯を終えたのであれば、彼がそれに晒されることはなかっただろう。しかし彼はGs的社会を知り、あまつさえその中に身を置いてしまった。彼が孤独を解消する方法は2つに1つ。「島に戻り以前の生活に戻る」か、「島の外で新たにGm的承認をしあえる関係性を作る」か、だ。

 そしておそらく、それは陽菜にとっても同じだったのではないかと思う。
 両親を失い、生きるすべもなく、冒頭の彼女は「Gm的にもGs的にも承認されていない状態だった」といえる。
 だが、彼女の行動原理の中で優先されるのは徹頭徹尾家族(Gm)の存在であった。晴れを願ったのは母のため。母の死後にも児童相談所預かりになることを拒否したのはおそらく家族という枠組みを何よりも重視していたからだろう。
 晴れ女の活動を通してGs的承認に笑顔を浮かべるシーンはあったが、あれも「家族とともに活動している」という大前提があればこそのものだ。いくら誰かの役に立てるとはいえ、たとえば凪くんが欠けた状況であの笑顔が浮かべられたとは思えない。彼女は確かに献身的・自己犠牲的だが、その根幹をなすのは無償の慈愛ではなく家族愛だ。
 そんな彼女が、晴れ女としての活動や警察からの逃避行を共にする中で、一度家族の枠組みの中に入れた帆高を凪と同等に優先するのは、さして不自然なことではないと僕は思う。

 最後のシーン、陽菜が祈っているのはおそらく自分と引き換えに沈んでしまった世界への罪悪感からであろう、という考えは僕も支持する。しかし、それを根拠に「結局帆高は陽菜のことを全然理解していない」という批判をするのはお門違いなのではないかと思うのだ。
 まずもって、帆高が陽菜のことを理解する必要はないのである。他者を理解することなんてできないのだから。
 お互いの無理解を理解しながらも「大丈夫」と断言するGm的承認。まさに、現代の孤独を埋めるためにもっとも必要なものだ。

 もうひとつ押さえておきたいポイントとして、天気の子全編を通して常に発信していたメッセージとして「人間は世界に対して無力である」というものがある。
 それだけを抜き取れば単なる諦観主義だが、その奥にはもう一段メッセージがある。「人間は世界に対して無力なのだから、変に責任感などを覚える必要はない。自分の意思で、自分の人生を選び取ればいい」。これは後に語る「WE ARE LITTLE ZOMBIES」から僕が感じたメッセージとほとんどの部分が共通している。

 以上、これが「天気の子」が描こうとした現代の姿ではないかと僕は考える。

「WE ARE LITTLE ZOMBIES」考 — 何かを「選ぶ」ということ

 続いて「WE ARE LITTLE ZOMBIES」について考えていく。といっても大枠はあんまり昨日書いた記事と変わらないので、まずはそちらを読んでもらいたい。重複する内容についてはとくべつ語らないことにする。


yk800.hatenablog.com


 この作品もまた、主人公たちが「Gm的承認を失う」場面から始まる。ただしこちらは自主的なものではないのだが。

 LITTLE ZOMBIESがGm的承認の枠組みにあったかと言えば、基本的に僕はそうではないと思う。彼らは「たまたま両親の死を目の当たりにしても悲しむことができなかった」という共通項を元に集まっているだけで、結びつきの強度はかなりもろい。

 ただし、例外がある。イクコだ。彼女だけはおそらくあの集まりを家族同然に大切なものだと感じていたのではないかと思う。彼女はむしろ承認過大だった。指の欠損はいろいろなメタファーとして考えられるが、僕は自己肯定感の欠如ではないかと考えている。自己評価ではない。自己肯定感だ。イクコは、「自己肯定感に比して母親以外の人間に愛されすぎ」ていた。
 それゆえに自分が等身大で承認されるLITTLE ZOMBIESは彼女にとって家族以上に正しく自分を承認してくれる場所だったのではないかと思う。
 バンド立ち上げを提案したのも、イクコだ。僕はあの結びつきを長引かせるための提案だったのではないかと、今は考えている。

 また、列車で3人のほおに次々キスしていくシーンも、物語では3人の夢(妄想?)として処理されているが実際にはイクコのイメージだったのではないかとさえ思う。あの関係性を壊したくないからこそ、感情の表現を踏み止まるのだ。
 これがなんの根拠もない都合のいい妄想解釈であることは、ここに併記しておく。


 この作品はより顕著に、わかりやすく現代の孤独を描き出している。象徴的なのがLITTLE ZOMBIESの社会的成功だ。彼らはそこで明らかに絶大なGs的承認を得ているが、それはまったく彼らの心に響いていない。けっきょくのところ、誰も彼らのことを理解などしていないのだから。


 天気の子とWE ARE LITTLE ZOMBIESで描かれたテーマは驚くほどに近いが、結末は正反対だ。「天気の子」は最終的にGm的承認を得る物語であったが、「WE ARE LITTLE ZOMBIES」は失ったそれを再び得ることはない。失ったという事実を飲み下し、乗り越える物語だ。ある意味厳しい物語だとも思う。
 だが、より希望に溢れた人間賛歌であったとも思う。孤独で良いのだ。人間は誰だって孤独なのだから。「孤独だから」という理由で絶望する必要などないんだよ、と、そんなメッセージを感じ取ってしまう。

 「天気の子」が「世界に対する無力」を描いていたのだとすれば、「WE ARE LITTLE ZOMBIES」が描いていたのはより直截な「他者に対する無力」だ。人間は理解し合えないのだから、ほんとうの意味で「誰かのために何かをする」ことなんてできやしない。だから自分の人生を、自分で選べ。それが「強い人間」なのだ。
 イシくんの父親のセリフ然り。クライマックスにおける「選択肢」という演出しかり。この作品はより明示的に「何かを選ぶ」ことの素晴らしさを訴えかけてくる。

 以上が、「WE ARE LITTLE ZOMBIES」の捉えた現代の姿であると考察する。

おわりに

 これからの時代、単なる「君はひとりぼっちじゃない」というようなメッセージは全くもって意味をなさなくなっていくだろう。

 既に悪い意味で話題が沸騰している「ドラゴンクエストユアストーリー」なんかはこの典型例だ。展開も古けりゃメッセージ性も古い。「ひとりでピコピコゲームしてる君のことを理解してあげる人間だっているんだぜ!」なんて言ったところで、今日び中学生だって感動できない。僕たちの孤独は既に別の次元にあるのだから(いうまでもないことではあるが、これらは全て「作品の舞台が現代ないし未来である場合」、という但し書きがつく。ゼロ年代初頭まで遡るだけで全く事情は変わっていくし、さらに前ならなおさらだ)。

 「天気の子」と「WE ARE LITTLE ZOMBIES」。この2つの類型は、新時代の孤独に対する向き合い方を2つ提示してくれた。

ひとつ。天気の子のように、無理解から目をそらさず、直視したままで誰かの側に寄り添う物語。

ひとつ。WE ARE LITTLE ZOMBIESのように、無理解を受け入れたうえで、自分の道を自分の意思で進む物語。

 これから先、これらのストーリーテリングはどんどん一般的なものになっていくだろうと僕は予想している。
 自らの手でこれらを描き出した2人の時代の先駆者に敬意を表して、本記事の結びに代えさせていただく。