もの置き

てきとうに色々書きます

フェノメノンの空に

 僕の人生は拡張少女系トライナリーを中心に回っているといっても過言ではないので、今回もいきなりトライナリーの話から入ることになります。もう飽き飽きしているかもしれないですけどどうか許していただければ。

 拡張少女系トライナリーの各エピソードのサブタイトルは映画のタイトルをオマージュしたものになっています。明言はされていないためあくまでファンによる推測ではありますが、例えばEp10「江戸川橋物語」であれば「下妻物語(2004/日本)」。Ep23「エクセプション」であれば「インセプション(2010/アメリカ)」のように。
 そして現行最新話にして第一部最終話のサブタイトル「フェノメノンの空に」の元として最有力視されているのが「ショーシャンクの空に(1994/アメリカ)」です。兼ねてより話題となっていたこの映画を、ようやっと観る機会に恵まれたので鑑賞したわけですが……掛け値なしの傑作でした。そしてやはりこれもまたトライナリーであり、最終話のサブタイトルとして相応しいものであったなと感じることができました。

 映画そのものの評論や解説などは僕が書くなんかよりももっと優れた記事がたくさんあるかと思うので、今回は僕が感じたこと、これはかなりトライナリーだなあと思ったことを中心につらつらと話していこうと思います。

 今回の記事はショーシャンクの空に」の内容を知っている前提で書いていることに加えて「拡張少女系トライナリー」の最終更新分(2018/1/17付)までのネタバレを含みますので未鑑賞の方はご注意ください。まあなにぶん古い作品なのでwikipediaにすらネタバレしかないんですが

 また、この記事では「物語としての拡張少女系トライナリー」の構造について踏み込んでいる部分がございます。そういう話が苦手な方は何卒ご注意を。








いつか謳う丘の下で

「おれはこの中でこそ腕利きの調達屋だが」
「外じゃど素人だ」

 僕のハンドルネームが「レッド」であるということも相俟って最初からずっと肩入れしながら見てきた調達屋のレッド。もうずいぶんと終盤に差し迫ったシーンでのセリフではありますが、この瞬間に僕の彼への移入度合いは臨界点を超えました。

 「ショーシャンクの空に」における「外」と「中」の構造は「刑務所」と「外界」、この一対の関係しかありませんでした。これをトライナリーに置き換えようとすると、もう少し複雑なことになります。「あちらの世界」と「こちらの世界」。「フェノメノンの中」と「フェノメノンの外」。「千羽鶴の掲げる理想社会」と「現実の社会」。そして、「彼女たちのココロの中」と「ココロの外」。
 僕がTRI-OSを介したコミュニケーションにおいて常々無力感を抱いている、という話は以前したかと思います。僕は「彼女のココロの手助けをする」という点においてはあの世界の誰にもできないことをやってのけることができます。しかし、その外側の範疇に入ってしまうと、あっという間にただの人間に成り果ててしまいます。物理的干渉を試みられない点も加味するとそれ以下とさえ。
 僕にできることは彼女たちが必要とする道具を手渡してやること、それだけであって、彼女たちを直接助けることはできません。最終的に方法を考え、実行し、目的を達成するのが彼女たち自身である点は、「ショーシャンクの空に」となんらかわりはありません。

 また、この構造をフェノメノンの中と外の二層に置き換えてみても。僕は原則としてフェノメノン存続派でした。この中で繰り返される日常が心地良いものであり、彼女たちにとっても幸せな未来につながると考えていたためです。
 これもある種の「収容病」であると言えるのかもしれません。無理に外を目指す必要なんてないじゃないか。中であれば平穏な生活が続けられる。フェノメノンは牢獄のような部分もありつつそれでも牢獄ではありませんから、この考え方は今でも間違ってはいないと思いますし、きっとやり直しの機会を得ても選択を変えることはないでしょう。しかし、かつて「この中こそが僕にとっての現実である」と言い切ってしまった僕に、続くアンディとレッドのやりとりは大きく刺さりました。

「そうかな。僕は誰も撃ってない。過ちの償いは十二分にした。ホテルに船、それくらい望んでも」
「バカなことを考えるな。大それた夢だ。お前は塀の中、それが現実だ」
「確かに。それが現実だ」

 僕が彼女たちに突きつけた答えは、彼女たちにとってどう聞こえていたのか。今はそれが気掛かりです。

 それでもレッド=僕を信頼してくれるアンディ=彼女たちの期待が嬉しい反面辛くもあったりね。そういうとこもかなり重なる部分があります。やっぱり俺はレッドだ。どうしようもないくらいにレッドなんだ。

 でも、本当に僕がレッドならば。もしかすると、いつかエルカドールの詩に出てくるような美しい大樹の根元を掘って、あの子からの手紙を読んで、それから過去のない海であの子と再び出会い、幸せに暮らす。そんな未来を期待してもいいのかもしれない、なんて淡い希望を抱いたりなんかして。

鮮やかなれやイシュリール

「昔ハーモニカをやってた。やめたがね。ここじゃ無用だ」
「なお必要だよ。忘れないために」
「何を」
「つまり……どこかにあるーー灰色じゃない世界をだ。心の中にあるものをだ。それは誰にも奪えない。自分だけのもの」
「つまり?」
「希望だ」

 僕はこのセリフを聞いたとき、「ああそうか、あのお話はつまりそういうことだったのかもしれない」と納得せざるをえませんでした。灰色の世界。それはおそらく、かつて真幌さんが迷い込んだ、千羽鶴の掲げる理想的な管理社会。それが社会全体にとって良いか悪いか、ということはひとまず置いておくとしても、少なくともつばめちゃんにとっては灰色の世界であるものとして築かれた世界だったのでしょう。
 拡張少女系トライナリーという作品を通じて、「Wishreal」はつばめちゃんにとって希望の象徴でした。セルフクランが抜け落ち、フェノメノンの洗脳を受けながらもなお、胸の裡にあって忘れることのなかった最後の砦。灰色の世界を鮮やかに塗りつぶし、世界を色で満ち溢れさせることのできる唯一のチカラ。それがWishrealであり、誰にも奪えない、彼女の希望だったのです。

 やっぱり、記録映像の最終話にこの「ショーシャンクの空に」という作品を元としたサブタイトルがつけられたのは、きっと気まぐれや「なんかかっこよかったから」というような理由なんかではないのでしょう。もっともトライナリーの世界にとって大事なものがここにあって、だからこういうサブタイトルになったのだろうなと、深く思い入りました。

あとはなんかもろもろ

 言いたいことは大筋語り尽くしたので、ここからは個人的に好きだったところを書いていこうかと思います。

・カラスのジェイクくんとブルックスおじいさんがすごく好き! 最初「虫を食うほど狂ったじいさんのか?」と思わされたり、実はそうではなくて胸ポケットにカラスのヒナ飼ってるだけでした〜ってそれも大概狂っとるやないかーい!っつって長期間におよぶ収容が生む異常さを克明に描き出してくれたように思います。序盤の雰囲気を決定づけた個人的MVPシーン。
 仮釈放が決まるや否や囚人仲間の首元にナイフつきたてたシーンは共感できすぎて痛いほどでした。「収容病」はおそらくこの作品の根底にもあるテーマで、たぶん常人であれば染まってしまうんですよね。中での居場所を確保してしまうと、むしろ出ることの方が怖く感じてしまう。その中で希望を捨てずに外だけを目指し続けたアンディという男の輝かしさがもう、ね!(語彙力)
 図書館司書の仕事についていた期間も、ほとんど人と接することなく過ごしてきたとあって、彼の家族はジェイクくんひとりだったのでしょう。新居に彼も連れて行くことができたとしたら、もしかするとブルックスおじいさんの行く末も変わったのかもしれないな、と思うと悲しいですね……。せめてジェイクくんが幸せに暮らしていることを願うばかりです。

・クライマックスはもう爽快の一言でしたね!「財布を囚人に預けるとか絶対ロクなことにならんぞ……」って終始ニヤニヤしながら顛末を見ていたので、

「翌日 壁の女が秘密をばらしたころ」
「誰も見たことのない男が銀行に現れた」

 この字幕が現れた瞬間ガッツポーズですよ、ガッツポーズ! よくやったアンディ! 俺はお前を待ってたんだ!!!
 前情報をほとんど仕入れてなかったのでクライムアクションだと思っていたんですけど、そうじゃなくてヒューマンドラマだったことでちょっと期待していたものではないな(それはそれで傑作だったんですが)、と感じていたんですが、最後の最後にしっかりやってくれました。やはりこうでなくては。裏帳簿を新聞社に送りつけるとこまで完璧に「やりたいことをやってくれた」、カタルシスの極地のようなクライマックスでした。興行的には成功しなかったらしいですけどなんでなんですかね。エンタメとしても極上の一本だったと思うんですが。

・ラストシーンの海めっちゃ綺麗でいつか行ってみたいなーって思ったんですけど、どうも汚染が酷くて今は行けないみたいですね……ううむ、残念……。

 今日のところはそんな感じで。
 大変美味しい作品でございました。ごちそうさまです。