もの置き

てきとうに色々書きます

レッドRe:ログ Vol.4

「上手い文章」と「面白い物語」は、全くもって別物だというお話


 以前こういう話をしたんだけど、文章のうまさや美しさは、実のところ話そのものの面白さとは全く関係がないというのは、意外と軽視されがちなのかなぁと思う。

 僕はいわゆる「なろう系」の小説をかなり読んでる方だし、好きな方だと思う。その上で敢えて言えば、「文章が上手い」なろう小説というのは、まあほとんど存在しないと言ってもいい。

 体裁がきちんと整っている「相対的にかなり上手い」部類のものであっても、だいたいはむやみやたらとくどい説明口調の文体が頻繁に挟まるし、語順は最適化されていない。

 同じような響きの単語が繰り返し使用されてテンポは悪く、仮に単語のリズムにまで意識が行き届いていれば、それだけでスタンディングオベーションしたくなるほどだ。

 僕は誤字の有無をそこまで重要視しない派なんだけど(意図さえ伝わればそれでよい)、誤字報告機能があるからか、文章としての体裁はしっちゃかめっちゃかなのに、誤字だけは不自然なまでに徹底的に潰されたような作品も、それなりの頻度で見かける。

 ひどいものでは、助詞や句読点の位置があまりにも滅茶苦茶で、どうやってもそうはならんやろって思ってしまうようなものも多い。

 しかし、あまりにも荒廃した文章に心が折られそうになりながら、それでも読み続けられる、読み進めたいと思う作品もまた、かなりの数存在しているのだ。

 なろう小説に駄文が多いことは、それなりの割合で事実だ。でも、それはほとんどの場合で重要ではない。読者が求めているのは面白さなのだから。


 「物語の面白さとは何か?」という問いは非常に難しいけれど、一番重要なのはやはり主人公のキャラクター性と感情の動き、これに尽きる。何かとヒロインに目を向けられがちな昨今ではあるが、個人的には女の子の可愛さは二の次だと思っている。圧倒的に主人公の魅力が第一だ。

 なろうにおいて一人称の小説が主流であるのは、この大原則をもっともダイレクトに遂行できるからだと思っている。

 なぜ主人公の魅力が最重要なのかという問いはナンセンスだし、そもそも主従が逆転している。その作品で一番魅力的で、こいつの姿を読者に見せたいと作者が思ったキャラクターが主人公に「なる」のだ。

 一本筋が通っていて、何か行動を起こすたびに「そうそう、こいつってこういう奴なんだよ」という、「どうしようもない友達」感覚を抱かせるキャラクターが最も望ましい。

 なにも、読者の考える通りの展開であればいいというわけではない。「こういう状況になった時、このキャラクターにはどのような感情の動きが発生し、それをどのようにして行動に表すのか?」という部分が納得できるように描写を積み重ねられていれば十分だ。

 小説とは因果の重なりであり、感情の共鳴だ。ロジカルに展開を組み立てる必要があるが、それは出来事ベースに限った話ではなく、むしろ感情ベースのロジックこそが展開を作るうえで本当に重要な部分だと言ってもいい。

 徹底的に作り込まれた世界観設定。緻密に張り巡らされた伏線。大変結構だ。でもそれは「物語」ではない。

 戦争があった。勝った。また次の戦争が起こった。負けた。ただの設定資料集やビックリドッキリギミック大全よりは多少「物語」だが、これだけではまだ不十分だ。

 戦争があった。勝った。嬉しい。油断しているうちに次の戦争が起こり、足元を掬われて負けた。迫り来る刺客の姿は、手元で可愛がっていた最初の敗戦国の奴隷だった。そうか、お前はずっと俺を恨んでいたのか。因果応報だ。諦念と共に胸元に迫る刃を受け入れた。

 これでやっと「物語」だ。

 私たちの多くは、小説の中に「人間」を求めている。「人生」を求めている。それが架空のものであろうと我々と何ひとつ変わらない、普遍的な「情動」を求めているのだ。

 もっとも、これは娯楽小説に限った話で、ミステリとかの分野だとまた違った楽しみ方を求める人もいるんだろうけど、それでも根本的な部分はたぶんそう大きく変わらないんじゃないかと思う。

 僕は、まあ人並みよりちょっと上くらいには、うまい文章を書ける人間だと思う。

 それでも、「面白い物語」を書く能力はまだまだ全然足りていないなあと、とってもへたくそでとっても面白いなろう小説を読みながら考えた、というお話でした。