Z-Aクリアしたので、色々思い返しながら感想つらつら書いていきます。主にキャラとシナリオの話かな。
もちろんネタバレありなので!!! よろしく!!!!
↑前提になる感想文(めっちゃ短い)
◆初手が窃盗未遂の時点で「このゲームやべー」って思ったよね
デフォルメされてるしポケモンのイタズラだったとはいえ、いきなり「悪感情」から入ってくる。全部終わった後だとゲームの開始時からテーマが一貫していたなって思えるとはいえ、初見は面食らうやな。おかげでバトルへの導入がすごくスムーズだったんだけど。
ポケモンを持つこと、抽象化すれば「誰かと戦う意志を持つこと」がこの街に参加する権利のキップだということがいきなり明示されてる。これって言うなれば参政権みたいなもんで、めちゃくちゃ社会的だなーと思いました。降りるのも自由だけど、それって権利の放棄であることは自覚してねって。
あとあとで勝手に荷物持ってくヤンチャムを見て荷物運搬サービスを始めてたの、ありがちだけどよかったね。他人から「ん?」って思われるようなことも使い方次第だよっていうのはまあよくある話なんですが、全体の流れの中にあのオープニングが組み込まれていたのが嬉しい。街の中だからそりゃまた会うことだってあるよね。
◆ガイという男について
つまり女主人公でプレイしているわけですが(ブティックがある作品は全部そうです)。どんぐらいガイとタウニーで動きが違ったかわかんないんですが、言動ほぼそのままだったら男の子の方がしっくりくるかも〜とは偏見たっぷりで思ってます。
エムゼット団の話にまとめようと思ったんだけど、こいつには1項目割かないといけない。なぜならこいつはミアレサイドの主人公だから。
ストーリーの中で徐々に帰属を強めていくとはいえ、プレイヤーキャラクターはどこまで行っても「まろうど」で、なら「ミアレの街」そのものを代表するヤツが対比として必要になってくる。名前が街でありTownなのは単にミアレシティという街単位のゲームだから、という理由だけではないなと思ってる。
個人的な解釈としては、ガイ/タウニーは「X/Y」の象徴なんですよね。そのままでも成立してるんだけど、そこにプレイヤーというZ軸が加わることで、新たな次元へと拡張していく。ジガルデを携えて。
ストーリー全体の流れとしてもそうだったけど、特に象徴的だと思ったのがクライマックスのミアレシティ防衛。
実は、メガフラエッテを操るところまでって、プレイヤーがこの街にいなくても何とかなってたと思うんですよ。だってガイって主人公なんで。実力はメキメキ伸びるし、エムゼット団の助けも借りて、おそらく他の陣営のアクの強い面々とも何とかやっていけてただろうと。
でも、クライマックスはそうじゃない。メガフラエッテを連れてアンジュに乗り込むヤツと、ジガルデを連れて暴走を止めるヤツ、2人の主人公がいなきゃ大団円を迎えられない事件だった。ここに至って初めてZ-AはZ-Aとして成り立つし、だからこそエンディング後に語られる奇跡という言葉の意味合いが際立つ。
「なぜライバルが選ばなかったもう片方の主人公のビジュアルなのか」についても、だってどっちも主人公だしで完結させちゃっていいんじゃないかなと思っています。主人公側のデフォルトネームと違う独自の名前なのは、どっちも主人公だけど立場が違うからですね。
そして、ここでテーマにも帰ってきます。
人と人は争いながらも、なぜ共に暮らすのか?
ひとりだけではできないことが、ふたりいればできるからですよね。
もう当たり前の、ほんっとうに当たり前のことなんだけど、ガイという存在がそのテーマをさらに一段上に押し上げてくれてたように思います。
◆「力」とは、人望である。——DG4:カナリィ&ダラゴン
おい初見の印象がナンジャモすぎる!!!!!!
実際じじいがホロキャスターで動かしてる間はキャラクターを作ってたわけなので、めちゃくちゃ参考にしたんだろうなと思います。
テンプレート古アキバオタクのコテコテ感に反してピュールの「こういうVオタクいるよね」の解像度がめちゃくちゃ高かったのが面白かったです。そういう人にヒアリングしたのか、ライターさん自身の投影なのか……。
本題。今回、フレア団ヌーヴォ以外の4勢力については争いごとにはつきものの「力」の在り方を描いているなと思っていて、DG4はたぶんこれだと思います。
インフラ整備業者ってまさにこれで、なくてはならないものを作ってくれる存在ってそこに住む人にとって絶対的な味方だし、だからこそそこでは尊敬を集める存在だなあと思います。方向性は違うけどカナリィといういわばアイドル的存在がいたのも人望の在り方の一つかな? って。ファンの多さは最後に役立ったものの、そこまでシナリオに絡めてこなかったのはちょっと意外だけど。
まあ最初の勢力ってことでそんなにアクが強くなく、目立ちはすれどシナリオでの活躍自体は少ない人たちでしたが、カナリィぬいのありがたさとか至るところにあるアスレチックの存在感とかどつき漫才とかで影の薄さがそんなになかったのが手腕だなあと思います。
グリとグリースもそうなんですけど、どう見てもネームドのキャラデザしてるやつが名無しでスッと出てくると変な笑い出るよね。クイズ大会でシャンデラ頭に乗っけてる女の子を見かけた時の話なんですけど。
◆「力」とは、武である。——ジャスティスの会:シロー&ムク
初見で「おっ、やべえの出てきたな」って思わせる、Z-Aくん渾身のファーストアタック。これでただの脳筋集団だったのが、もう逆に面白い領域にきちゃったよ。
でも、言われてみたら現実にある武道系の教室だって、「他人との殴り合いを通して人としての心の在り方を養います!」って事実だけ見たらまあまあカルト的ですよね。もちろんそういうもんじゃないってことは分かったうえで、表現として皮肉が効いてるなと思う。
こいつらも変だけど集団としては結構カゲが薄い。というかシローが濃すぎて他を薄くするしかない。
シローの主張自体はまあまあ分かるとこもあって、言ったらホウエンでレジ3体を閉じ込めた古代人に対してのアンサーですよね。怖かったからって閉じ込めるのはおかしい、俺たちが弱かったことへの言い訳だと。なぜ人が同じように力を高めて、共にあろうとしない? という問題提起はかなり面白いなと思います。野生ポケモン全体をひとつの勢力として考えると余計にね。
ラディカルな主張を取っ払って見てみると、「自衛のための軍事配備は必要であり、外交とはそれがあって初めて成り立つ」ってことを言ってるだけなんですよね。
でも現実的でない行きすぎた主張はロクなことにならんというのもまた事実で(いうて異なる文化圏なので)、まあひとつの極端な例ですよね。こういう極端なやつらの三、四理ぐらいはあるけどヤバい主張に染まりすぎないようにしようね!
ムクちゃんはかわいいのでいいと思います。
この兄妹、なんで白無垢なんだろうな。あくまで純粋に活動してるからなんだろうか。
◆「力」とは、組織である。——サビ組:カラスバ&ジプソ
ミアレの身から出た錆、サビ組。
僕は「必要悪」って言葉があんまり好きではないんだけども、現実として身近に迫る怖い人がいないといくらでもハメを外せる人間ってのはいて、そこに対するカウンターパートであると明言されている、ヤのつく何でも屋さん。そこまでモブに言わすのかよとは思わないでもなかったけど、明言されてるのはいいことなのかなとも思う。
人の善意と悪意、両面を描こうとしているこの作品にとってかなり象徴的な存在だなあと感じています。
カラスバのキャラクター性において重要なのは、彼が個人としてはさほど力を持っていないところ。生い立ちとしてもいわばスラム出身の孤児であることが触れられています。それでも彼がミアレの社会に影響力を持っているのは、同じような境遇の者やはみ出し者を束ね、組織しているから。
人望にも近いは近いんだけど、彼らは市民から広く支持されているわけじゃない。あくまで自分の組織の中だけ。それでも、それらが集まったとき、決して無視できない力を発揮する。
クライマックスの人梯子はめちゃくちゃギャグだけど、端的にサビ組の在り方を表していましたよね。人を集めることで目的を達成すること、それがカラスバの「力」だと。
ジプソは、まあ、凸凹コンビの凸ですかね。
◆「力」とは、金/権威である。——SMBC:ユカリ&ハルジオ
ド直球にマネーパワーとハイソサエティパワーで殴ってくる、作中屈指のやべーやつ。防衛戦を終えた今でもダントツで一番怖いと思ってます。権威があるから金が入ってくるし、金があるだけ権威は強まる。ずっとぐるぐるお互いを高め合うから手に負えない。お家の人はもっとちゃんと教育してください。
ほんでユカリゾーンは何で法で規制されてないんだよ。かわいらしいポーズで誤魔化してる場合じゃないだろ。まあでも、エグすぎない形で描写する「我儘な権力者」のデフォルメってこんな感じにならざるをえないのかもしれない。
やばすぎるし怖すぎると思ってるし、意外とこれぐらいしか言うことないかもしれない。多少ノブレス・オブリージュを見せてくれたからってどうにもできない恐怖があります。
◆フレア団ヌーヴォについて
アール・ヌーヴォーの理論的先駆はヴィクトリア朝イギリスのアーツ・アンド・クラフツ運動に求められる。ウィリアム・モリスやジョン・ラスキンらは、工業化の進行とそれによる創造性の枯渇を厭い、社会の再生は、人々の周りにあり人々が使うもののフォルムの真正性によってしか成されないのであるとして、中世のギルドの精神、自然界のモチーフの研究、洗練されたフォルムへの回帰を強く勧めた。(wikipedia「アール・ヌーヴォー/歴史」より一部抜粋)
単純にNewという意味合いでのヌーヴォだと思ってはいるものの、パリ(ミアレ)でこの言葉が出てくるなら触れざるを得ないと思ってちょっとだけ調べました。
「工業化の進行とそれによる創造性の枯渇を厭い、社会の再生は、人々の周りにあり人々が使うものののフォルムの真正性によってしかなされないのである」。
なるほど。まあ勝手に深読みして勝手に意味を見出してるだけですが、ちょっとこう、思うところがありますね。過去のフレア団のことを思うと。
フレア団ヌーヴォは今までの「争いと力」の軸からは外れて、Z-Aの持つ「X/Yの続編的存在」としての側面に強く踏み込んでいるのは言うまでもないと思います。内部構造は流石に記憶になかったのでアレですが、フラダリラボに入った時はやっぱテンション上がったよね。
この側面で見た時、やはりXYのモチーフとして破壊と再生の話は避けて通れないでしょう。フレア団ヌーヴォの彼らもまた、破壊し、そして再生しようとしているところですから。過去のフレア団の所業という風評を。
過去に行ったことは消えないが、しかし、今の自分たちの行いでこれからの自分たちを変えていくことができる。自分自身を破壊し、新しく作り直すことで、より強くなる。アタシ再生産。
AZの最後のセリフ、「いつだって現在が未来を創る」という言葉は誰にも当てはまりますが、僕はここへの架け橋となったのがフレア団ヌーヴォなんじゃないかなと思っています。
名前もいいですよね。俺たちはあくまでフレア団でそれを変えることはできないけど、でも新しくなることはできる。そういう所信表明みたいに思えます。
◆A-Zの終わり、そしてまたAへ
XYの続編としてのZ-Aは「AZに心置きなく死んでもらうための壮大な葬送の話」でした。
3000年前に始まった男の物語は、X、Yを経てZたるジガルデが終止符を撃ち、しかしZからAに戻るこのタイトルにより廻ることが示唆されています。カロスの過去は精算され、しかしそこで物語が終わることはなく、現在を生きる人々がまた「A」から始めていく。原初への回帰を見届けた男が死ぬのは、必然と言えるでしょう。
AからZへ、そしてまたZからAに。XYの土台となった思想からして生命の循環がモチーフであればこそ、この終わり方は完璧というほかありません。最後にZAロワイヤルが∞になることも含めて。タイトルが公開された段階で色々言われていたことではありましたが、フタを開けてみるとこれ以上ないぐらいに美しく回収し切ってくれました。
なんかもう、全部綺麗なんだよな。Z-AはXYの総括として何も言うことがないです。
◆そして、人とポケモンは共にあり
シンオウのむかしばなしに、こんな一節がありました。
ひとと けっこんした ポケモンがいた
ポケモンと けっこんした ひとがいた
むかしは ひとも ポケモンも
おなじだったから ふつうのことだった
ポケモンの世界は、今、急速に人とポケモンとの境界をなくそうとしています。
それはゲームの発展とともにありました。かつてはエンカウントエリアとして設定された草むらや洞窟にしか出なかった野生ポケモンが、今やミアレの街中に溶け込んでいます。
それは文化の浸透と共にありました。始まったときにはあくまでモンスターだったポケモンは、その人気を増すにつれて戦友になり、隣人になり、今や家族になりつつあります。
私たちは、ポケモンとともに生きるということにより明確に思いを馳せるようになりました。ポケモンGOが嚆矢となり、映画版名探偵ピカチュウやポケモン生態図鑑、ポケパークカントーなど、あらゆる方法でポケモンのあり方を見つめ直しています。Z-Aのワイルドゾーンも、そのひとつです。
しかし、少なくとも言えるのは、不自然だったかつての形から、徐々に原初の、より自然に近い形に回帰しようとしているということです。だからこそアルセウス出してからのZ-Aって流れがすげーなと思うんだけど。
もちろん人とポケモンが結婚するようなことは現代においてはないでしょうが……人とポケモンとの境界は、確実になくなってきています。Z-Aにおいて、野生ポケモンはミアレシティの人々と利害を異とするひとつの陣営でした。言葉がないから主張こそはしませんが、少なくとも隣人として尊重されていたことは確かです。
「すべての いのちは べつのいのちと であい なにかをうみだす」。Z-Aでは人と人が争い、話し、何かを生み出す姿を克明に描いていました。では、人とポケモンは?
ワイルドゾーンの障壁が完全に取り払われる時がもし来たら……果たして、その時のミアレの姿はどうなっているのでしょうか。
LEGENDSシリーズ、好きですねぇ。