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【ブログを書くほどでもないことをブログに書いていこうのコーナー】SCPとかいうやつについて【第1回】

 ブームらしいブームは既に一過したと言ってもいいのだろうか。と言っても、「すっかり廃れた」という意味合いではなく「書店の片隅にコーナーが設けられているのが当たり前になった」という表現をする方が的確だろう。

 SCPという不思議なWiki形式の共同創作は、今やそれなりの人権を得るに至った。よく知らんオタクのbioの、スラッシュで区切られた大量のコンテンツのなかにこのアルファベット3文字を見つけることはそれほど困難なことではない。結構なことだ。
 僕自身、高校時代はそこそこTRPGで遊んでいた経験があったこともあり、何本かの記事を楽しく読ませてもらった。

 が、どうにも。オタクたちの間でもてはやされる有名なオブジェクトのうちの幾つかが、僕にはどうにも好きになれないのである。

 それはきっと、好みの問題ではなく、「僕がSCPというものをどう捉えているか」という部分に起因するものだと考えたので、今回はそのことについて軽くお話したいと思う。


 まず、僕が一番好きなSCPを紹介しよう。それがこれだ。

SCP-504 - SCP財団

 シンプルイズベスト。おそらく今後数年にわたってこれ以上に優れたSCP記録記事を読むことはないだろう。

 外観を表すイメージ画像の簡潔さ、内容のバカバカしさ、くだらない実験に付き合わされ悲惨な負傷を追うDクラス職員、それを憐れむ気配すら見せない淡々とした実験結果の羅列。
 SCPここに極まれりと言っていいだろう。

 まず、SCPの記述は情緒的であってはならない。僕がtaleを多用するSCPを好まない理由がこれだ。
 なぜなら、本来的にはSCPとはあくまで保管記録であり、実験の結果わかったことを記載するだけという体裁を取っているものであったからである。
 もちろん「どのようにして発見されたか」という部分に物語は介在するが、そんなものは枝葉だ。どこの誰がどうなったかだけがわかれば十分であると僕は思う。

 その点《Critical Tomato》は素晴らしい。珍妙で馬鹿馬鹿しいSCPであるにも関わらず、極めて客観的に、真面目な文体で記述されている。真面目なSCPにしろ、不真面目なSCPにしろ、この統一されたプラットフォームがあるからこそSCPという共通認識は成立するのだ。



 ……さて、このSCPでひとしきり笑った後のことだ。
 僕はふと益体もないことを考えてしまう。「もし実際にこんなトマトがあるってニュースとかで報道されたら、明日からスーパーの野菜コーナー立ち寄れないよなぁ」と。

 もしこのような物体が存在するということが世界中で報道されたとしよう。そうしたら、僕らは野菜コーナーでくしゃみをすることすら躊躇われることになる。「ジョークに反応して殺人的速度で飛翔してくるトマト」が現実に存在するのだ。しかも見分けはつかないし、原因も当然ながら判明していない。そんなものが存在するのだとしたら、仮に「くしゃみに反応して飛翔するカボチャ」が存在したってなんら不思議ではないだろう。あるいは「オタクに反応して飛翔するコーン」だとか、「呼吸に反応して飛翔するニンジン」だとか。馬鹿馬鹿しいかもしれないが、そんなものの存在を、誰が、どのように否定できよう?

 あるいは、野菜に限らないかもしれない。肉が。魚が。袋詰めのお菓子が。ペットボトルが。今日朝食のパンを焼いたトースターも、昨夜あなたの髪を乾かしたドライヤーも、あるいは今この瞬間にこの記事を読んでいるあなたのデジタルデバイスでさえ。そのどれもがある日突然あなたを殺さないという保証は、誰がしてくれるだろうか?

 科学か? いいや、SCPの多くは科学的に説明がつかない。説明はつかないがそこにある、いわば「世界のバグ」だ。
 あなたの手元にあるそれがバグっていないという保証はどこにもないのだ。

 ここまでは「架空」の話だ。
 しかし。
 しかしである。
 しかし、我々が現実に暮らしているこの世界にもそのようなバグが全くないという保証は、できないのではないだろうか。さすがに、「飛翔するトマト」まで行ってしまうのは荒唐無稽すぎるかもしれない。だがしかし、例えばあなたのテレビリモコンから密かにサブリミナル要素を含んだ信号が発信されていないという保証はない。あなたのPCが個人情報をどこぞの犯罪者に垂れ流していないという保証はない。ある日突然自動車のエンジンが火を吹く命令信号を受け、あなたはその巻き添えとなって死ぬかもしれない。
 我々は身の回りのことについてわかった気になっているが、果たしていかほどのことがわかっているのだろうか。
 我々の日常というものは極めて薄くもろい氷の上に成り立っているのではないだろうか。


 白状しよう。これこそが僕の考えるSCPの本質である。
 当たり前に過ごす日々の常識が塗り替えられ、これまでに築き上げてきた様々な物事の全てが根底から崩壊させられる感覚。

 かつてSCPとクトゥルフ神話との類似性を指摘した評論家がいたらしいので僕もそれに倣うとしよう。

 SCPとは一種の宇宙的恐怖をもたらすホラーコンテンツである。
 ただし、クトゥルフ神話の恐怖が「キリスト信仰を冒涜するコズミックホラー」であるとするならば、SCPの恐怖はいわば「科学信仰を冒涜するコズミックホラー」であるといえるのだ。


 かの有名なSCP-173も、ビジュアル面でのインパクトが強いゆえに何かと取り沙汰されがちだが、大元となった記事自体は極めて簡素であるし、ここにも日常と紙一重の恐怖は存在する。
 すなわち、日々目にする銅像や彫刻、あるいは人形といった小さなものに至るまで、あらゆるものが私を殺しに来ないのはたまたま・・・・彼らの機嫌を損ねていないから、というだけではないか、ということだ。


 SCP財団が彼らを極めて「科学的」な手法で研究しているのは、一面では痛烈な皮肉であり、一面では心強い味方であると僕は思う。科学の通用しない存在に対して科学的手法を愚直に試みるのは見ようによっては愚かであるだろう。しかし、それが功を奏し、いくつかの例では研究結果をもとに正しくSCPオブジェクトを活用することで他の破滅的なオブジェクトに対して一定の効果をあげることができている。
 これは「使っている道具について実は詳しいことをほとんど知らないが、便利なので使っている」我々とさして変わりがない。より規模が大きく、扱うものが危険になっているだけで。それは恐ろしいことではあるが、未知との付き合い方としては正しいといえるのかもしれない。


 とまあここまで長々と書き連ねてみたものの、実際のところ初期のSCPにおいてもこれらの特徴に当てはまらない「ただの怪異」は山ほど存在するし、どんな形の恐怖であってもSCPというフォーマットに落とし込むことが容易であるという自由度の高さこそがSCPの発展を支えたのは間違いないだろう。
 それを否定する気は全く無いし、できようも無い。

 ここまでの3000字はただの独り言であり、チラ裏であり、ブログで書くほどでもないことである。この突然生まれたコーナーは、そういったこともどうせならブログに書いていこうという試みだ。いわば、思ったこと置き場。こっちの方がよっぽどブログタイトルを全うしているような気もする。

 今後複数回に渡ってこの企画が続く……かは全くわからないが、話半分で付き合っていただければ幸いである。