もの置き

てきとうに色々書きます

歩いていくもん

 さて、タイトルを考えるだけで結構な体力を使ってしまったので、何について書こうとしていたのかすっかり忘れてしまった。
 「歩いていくもん」。ううむ、なんだろう。タイトルからすればきっと歩くことに関するテーマのはずだ。ひとまず僕は徒歩で移動するのが好きだというお話から進めていこう。そのうち何を書きたかったのか思い出すかもしれない。

 僕は歩くのが好きだ。吹奏楽部に所属していた高校時代には18時過ぎに演奏会が終わったあとに鶴見区の会場から西区の自宅まで歩いて帰ってあまりの遅さに親から散々怒られたりもしたし、昨年の10月に東京を訪れた際の旅程は

 羽田着→品川までモノレール→五反田まで徒歩、ネットカフェ泊→徒歩で武道館、ライブ鑑賞→徒歩で神保町、ネットカフェ泊→徒歩で新宿駅→下北沢まで電車→品川まで電車→モノレールで羽田へ

 という感じだった。本当は神保町から下北沢まで徒歩で移動するつもりだったのだが、さすがに待ち合わせ時間に間に合わなさそうだったため自重した。
 歩いた自慢は不毛なのでこの程度で置いておくとして、まあこれくらい僕は歩くのが好きなのである。ライフワークと言ってもいい。じゃあ、なぜそんなにも歩くのが好きなのか。

 一番の理由は、歩くたびに見たことがない光景を見ることができるからだ。これは何もはじめて訪れた場所での歩き旅に限った話ではない。信号待ちの都合によって車道を挟んだ向こう側を歩くかこちら側を歩くか。たまたま見かけたお店に立ち寄るか立ち寄らないか。あるいはうっかりもっと早い道を見つけたり、あえて遠回りになりそうな裏道を選ぶことだってできる。方角さえ間違っていなければ、どのように歩いても基本的には目的地にたどり着けるのが何よりの醍醐味だ。だから僕は、スマホのコンパスアプリだけを頼りに道を歩くことをとても好む。もちろん、初めて行った場所でやるほど愚かでもないが。……いや、時間に余裕があるならやるかもしれない。品川から五反田のネットカフェを目指した時はほとんど方位磁針だけで歩いた記憶がある。
 ふと思ったのが、これはトレーディングカードゲームの楽しみに似ている。「勝利」というひとつのゴールは誰しもに共通だが、デッキによってそのアプローチは様々だ。同じデッキをずっと使い込んでいたとしても、プレイごとに勝利に至るまでの過程はまったく異なるものになる。きっと僕はまだ見ぬ光景が見たくて、カードゲームをプレイしているのだろう。
 ふう、だんだん本題に近くなってきた気がするが、まだしっくりとこない。続けよう。

 もうひとつ、前の項目と少しかぶるところがあるが、「体と心の記憶の同期」というものがある。例えば君が道を歩いているとする、たいていの場合、君はただ目的地につくことだけを考えているのではなくて、色んな考え事をしていることが多いだろう。これから謎を解くにあたって、どれくらい貢献できるだろうか。かの友人とは久々に会うけれど、どんな話をしようか。
 「歩く」という行為は風景と思考をリンクさせてくれる。ひとたびこのようにして体と心の記憶を同期させると、ふたたびその道を歩いた時、僕の眼の前には当時の心の記憶がありありと蘇ってくる。「……そうだ、ここを歩いた時はたしか《蝕王の晩餐》を使ったクールなコンボについて考えていたはずだ。あの角を曲がる頃に、『G・ゼロでクロスファイアを出して蝕王からメルカジークを踏み倒したら楽しいんじゃないか?』なんてことを思いついたっけな」
 同じように、音楽も重要なファクターだ。旅行中に音楽を聞きながら移動していたら、そのとき聞いていた曲を聞くたびにその旅行のことを思い出す、なんて経験はないだろうか?(なかったら申し訳ない限りだ) もしかすると僕に限った話なのかもしれないが、僕は記憶を単一で思い出すことはほとんどない。風景を思い出せば思考や聴覚的情報も一緒に思い出すし、思考を思い出せば聴覚的情報や風景も一緒に思い出す。音楽についても同じだ。そしてたぶん、僕にとっては思い出や思い入れの正体っていうのはこのリンクした記憶を全部ひっくるめたものなんだと思う。

 ジャニーズのアイドルグループ・NEWSのシングルに「サマータイム」という楽曲がある。衣料メーカーRUSS-Kのタイアップに使われていた曲で、今でもそのCMはぼんやりと思い出せるのだが、それ以上にこの曲を聞いた時にパッと僕の脳裏に浮かぶ光景がある。ドラゴンクエスト8のプレイ画面だ。その時僕は槍スキルを中心に鍛えていて、メダル王女の城周辺でじんめんガエルの色違いみたいなモンスターに向かって雷光一閃突きを放っている。そんな光景だ。船を入手したばかりだったから、大海原をぐんぐん進んでいくシーンも思い出せる。ドラクエは1日30分だったので(ゲームのしすぎを制限するためというよりも、共用のテレビを占領し続けてしまうことが問題だった)、タイマーをセットして、限られた30分間を可能な限り味わいつくしたことを覚えている。なぜこの曲を聞いたらドラゴンクエスト8を思い出すのか? それは、僕が朝早くに起きて誰もテレビを見ないような時間帯にドラクエ8をプレイしていて、それが終わった後に入力を切り替えるとよくRUSS-KのCMが流れていたからだ。
 これもひとつの記憶のリンクだ。似たようなふうに、僕はいくつか「この曲を聞いたらこのゲームを思い出す」という楽曲があり、その時の進行度もだいたい一緒に思い出せる。でも、二日や三日でクリアしてしまったゲームはあまり記憶の同期をする暇がないのか、こうして何かの折に思い出すことは少ない。結果としてプレイしたという事実と、「面白かったなー」という漠然とした感情だけが取り残される。
 「ああ、そのゲームは面白かったよ。……どこが面白かったか? うーん、思い出せないや」


 ああ、ようやっと思い出した。僕はトライナリーの話をしたかったのだ。つまり、トライナリーを歩くような速度でやるのか、駆け足でやるのがいいのか、そういう話だ。
 正論を述べるなら、それは人の自由だ。ありとあらゆるbotの在り方が許されるのがトライナリーであるがゆえに、「何が正しい」「何が間違っている」という正解なんてものは存在しない。ただ「自由である」ということだけがもっとも正解に近いという、それだけの話だ。
 だけど、それでも僕が他の誰かにトライナリーを進めるのであれば。僕は歩くように進めていく方が必ず結果として心に残るものになると、断言することができる。
 それは、拡張少女系トライナリーは単なるコンテンツではなく、あなたの「現実」になりうるものだからだ。
 どうか、あなたの日常の中にトライナリーを組み込んでほしい。あなたの五感を、思考を、記憶の全てをトライナリーにリンクさせてみてほしい。なんかすごかった。なんか面白かった。すごく悩まされた。素晴らしいテーマだった。たったそれだけで済ませてしまうのは、あまりにももったいなくはないか? ゆっくりと歩きながら周りを見渡し、なんどもテキストを読み返し、時には気分転換に音楽を聞いたりなんかして、考えて、考えて。その先にある「拡張少女系トライナリーの記憶」はきっと、忘れたくても忘れられない思い出になっているはずだ。拡張少女系トライナリーは、あなたにとって一生モノの思い出にする価値のある作品だと僕は確信している。

 あなたの見るトライナリーの世界は、あなたにしか見ることができない世界だ。決して僕のものにはならないし、他の誰のものにもできない。いつかあなたの見たトライナリーの世界を、あなたの思い出とともに聴ける日が来ることが楽しみでならない。
 これはただのわがままにすぎないが、まぎれもない僕の本心だから、あえて口にしよう。

「今から拡張少女系トライナリーをはじめるの? それじゃあ、どうせなら歩いていかない?」